ファーレ倶楽部

ファーレ立川について

ファーレ立川がある街の歴史

○1922(大正11)年
日本陸軍立川飛行場がこの地に開設された。
関東大震災のあとは民間航空機も乗り入れて、国際空港としても機能していた。

○1931(昭和6)年
羽田に東京飛行場(現・東京国際空港) が完成したのを機に、民間航空機は羽田へ移動した。

○1945(昭和20)年 
第二次世界大戦が終結し、アメリカ空軍が立川飛行場へ移駐、米空軍極東司令部を設置した。
立川はアメリカ軍の「基地の街」として栄えた。

○1977(昭和52)年 
 米空軍極東司令部が閉鎖され、立川基地は日本へ全面返還された。
その後、国営昭和記念公園と広域防災基地 、そして新たな商業・業務市街地の3つの区画として再開発された。

○1994(平成6)年 
 
商業・業務市街地には、オフィス、デパート、ホテル、映画館、コンビニエンスストア、郵便局、公共施設などが建設され「ファーレ立川」と名付けられた新しい文化を築く街が誕生した。

アート導入のコンセプト

「新しい文化を築く」を具現化するための一つの方法としてアートを導入し、芸術・文化のメッセージを立川の街角から世界に発信しようとした試みが「ファーレ立川」だった。
しかし実際にアートを導入するには、様々な要件をクリアしなくてはならなかった。

近くに広域防災基地があるために建物の高さに制限があること、建物同士の間隔が狭いこと、広い道路が確保できないこと、という条件がある上に、アート構想が動き出したときには既に全ての建物の設計が完了し、基礎工事が始まっていた。
アートのためのスペースは無かった。

そこでこの街のアートをプロデュースした北川フラム氏は、次の3つのコンセプトを提示してアート計画が具体的に進められることとなった。
1.「世界を映す街」
できるだけ多くの民族が、それぞれの思いを多様な方法で表現できるようにと、36ヶ所国92名のアーティストが参加し、109ヶ所に作品が設置されている。
2.「ファンクション(機能)をフィクション(美術)に」
歩道、車止め、壁、換気塔、ベンチ、駐車場や駐輪場のサイン、ツリーサークル、広告板などの都市機能をアート化していて、それはまさに物語のある都市機能となっている。
3.「驚きと発見の街」
作品にはタイトルや作家名を付けず、直接アートを発見して驚いたり楽しんだりできること。
北川氏はこの街を森に見立て、ここに息づくアート達を小さな生き物や妖精にたとえている。
 
これら3つのコンセプトがアーティストに伝えられ、多くのアーティストがアイディアを寄せ、北川氏が作品を配置して、1994(平成6)年10月13日、このパブリックアートの街「ファーレ立川」が完成した。

その後2005(平成17)年には、ファーレ立川内のビル所有者によるファーレ協議会、立川市、ファーレ倶楽部の三者により「ファーレ立川アート管理委員会」が結成された。
完成から長い年月を経て、作品には経年劣化が現れたり心無い落書きなどもあったため、2007(平成19) 年には10周年記念事業として38作品の修復が行われ、2016(平成28)年には20周年記念事業として42作品が修復されたが、そのイニシアチブを取ったのが同委員会である。

<参考文献>
「ファーレ立川アート計画記録集」
「別冊太陽 パブリックアートの世界 アートの妖精が棲む街 ファーレ立川」 
監修 : 北川フラム

「ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた」
著 : 北川フラム 

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